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山田温泉と平野屋 トレッキングマップ  

開湯200年の歴史
明治時代の山田温泉の人々

信州高山温泉郷の中心地・山田温泉は、元禄4年(1691)頃元湯に小屋が建ちはじめ、その後、江戸時代の中期・寛政10年(1798)、現在の地に引き湯・開湯して二百年を迎えました。

元禄の頃には、山田温泉の湧出源は、現在の湯元・牛久保から約2キロ上流の松川渓谷の上流にありました。当時の元湯は、山に入って働く人達が汗を流す程度に利用されていたようです。

そして明和6年(1790)頃、温泉の運上金を上納する代わりとして、湯治客から宿泊代をもらうことが公認されました。その頃すでに、9軒の温泉の仮設小屋があったようです。

句会で信州高山村をたびたび訪れ逗留している俳人・小林一茶が湯治に来たのは文政年間(1820〜30頃)で、「春風に猿もおや子の湯治哉」の句を残しています。


訪れた文人墨客●1
野尻湖に近い信濃町・柏原に生まれた俳人・小林一茶(1763〜1827)は、江戸や諸国を回って修行を重ねましたが、文化9年(1812)故郷に帰り、近在の俳諧の門人達と親交を深めました。高山村では、豪農の久保田春耕と交流があり、久保田家の離れ家に逗留しました。その折、山田温泉にも湯治に足をのばし、「春風に猿もおや子の湯治哉」の句を残しています。高山村と一茶については、一茶ゆかりの里「一茶館」の展示が一茶の生涯を伝えています。

明治時代に入り、湯元を管理する温泉組合も設立されました。その後、明治の中期になると、山田温泉から万座越えで荷を運ぶ馬方衆や湯治客で賑わいを見せます。

明治23年(1890)夏には、文豪・森鴎外がこの地を訪れ、一週間滞在して「みちの記」と題する紀行文を書いています。


訪れた文人墨客●2
明治23年(1890)8月中旬、文豪・森鴎外(1862〜1922)は、開通間もない信越線を乗り継ぎ、山田温泉を訪れ1週間滞在しました。その折りの紀行文「みちの記」に、「長野にて車を降り人力車を雇いて須坂に来ぬ…たまたま牛挽きて山田へ帰る翁ありて牛の背貸さんといふ。これに騎りて須坂を出ず。…とことろどころに清泉ほとばしり出でて、野生の撫子いと麗しく咲きたり。日暮るる頃山田の温泉に着きぬ。…家数30戸ばかり、宿屋は7戸のみ。湯壺は去年まで小屋掛のようなるものにて…男女ともにいることなりしが、今の混堂(現在の大湯)立ちて体裁も大いに整いたり」と書いています。

大正15年(1926)2月には、早くも山田温泉スキークラブが結成されました。文豪・菊池寛がスキー大会の審査員としてスキー場を訪れた記録も残っています。

同年8月には、与謝野鉄幹、晶子夫妻が山田温泉に遊び、晶子は、「鳳凰の空をあふへる奥信濃山田の谷の秋に逢うかな」と詠んでいます。 その後晶子はたびたび訪れました。(舞の道入口に歌碑があります)

時代は下って昭和11年(1936)5月、漂白の俳人・山頭火が、万座峠から山田温泉に下り、「霧の底にて啼くは筒鳥」などの句を詠んでおり、このときの旅日記に新緑の季節の周辺の見事な描写とともに表しています。(薬師堂に句碑があります)


訪れた文人墨客●3
「七時出發、長野へ向ふ。身も心も軽い。霧雨しっとり、濡れよとままだ。山田温泉まで下り三里。ふきのとう、わらび、雑木の芽、落葉松の若葉はこまやかに白樺の肌は白うかゞやく。雑木山のうつくしさよ、青葉若葉の青さ、せぐりおちる谷水の白さ、山つゝじの赤さ。ほどなく山田温泉に着いた、」
漂泊の俳人・種田山頭火は、昭和11年5月、万座峠を越え霧雨に濡れながら、山田温泉に到着します。この信濃路からみちのくへと続く旅は山頭火の生涯における最大最長の旅でした。
 青く明るく信濃の国はなつかしきかな

昭和43年(1968)には、志賀高原と結ぶパノラマルートが開設され、冬期を除いて新しい観光ルートになりました。

平成に入ってからは、大湯の改築、舞の道遊歩道、八滝展望台、薬師堂の屋根葺き替えなど山峡のいで湯らしい山田温泉周辺の整備が行われ今日、開湯200年を迎えました。信州高山温泉郷の中心地・山田温泉は、元禄4年(1691)頃元湯に小屋が建ちはじめ、その後、江戸時代の中期・寛政10年(1798)、現在の地に引き湯・開湯して今年二百年を迎えました。

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信州高山温泉郷 平野屋
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